嵯峨豆腐店

歴史

嵯峨豆腐の歴史

昭和32年、今では当たり前となった5千円紙幣や100円硬貨が初めて発行されたこの年、雄大な自然に囲まれた岩手県久慈市の山形町(旧山形村)にて嵯峨とうふの歴史は始まります。

祖母の豆腐作り

幼い頃から、祖母の豆腐作りを手伝う。

明るくておおらかな祖母の嵯峨ツナが作る大豆たっぷりの豆腐はご近所の方を中心に大変好評でした。もともと食べることが好きだった嵯峨豆腐店の現当主、わたくし嵯峨大介は祖母の豆腐作りを手伝うのが当たり前になっておりました。この頃の経験が現在の嵯峨豆腐店の豆腐作りの基礎を作ったともいえます。しかし、当時は自分が豆腐作りを引き継ぐイメージは全くありませんでした。

祖母との写真

帰郷後、震災を経て祖母から豆腐作りを学ぶ。

大学卒業後、自動車メーカーに勤めた私ですが入社後、思い描いた社会人生活とは違った日々を送っていました。私自身良くも悪くもこれと決めたらこれをやりきるという性格であり、後先考えずに行動してしまうことがあります。悩んだ挙句退職し、あてもなく実家に帰ってきたとき、東北全土を未曽有の大災害が襲います。震災の影響で地元から身動きが取れなくなったとき、私にやれることは「祖母から豆腐作りを学ぶ」事でした。ここで初めて小さい頃に祖母の豆腐作りの手伝いをしていた経験が活きます。

試行錯誤

豆腐作りの難しさがわかり、試行錯誤を繰り返して、とことん追求した。

豆腐作りを本格的に始めてから、豆腐作りの難しさがわかりました。豆腐というのは、天候、気温、大豆の品種、粒の違いによって全くの別物になります。回数を重ねるうちにようやく温度、大豆の品種、粒の違いで豆腐の状態が変わることがわかりました。豆腐作りというのは感覚が大事であり、祖母から教われなかったことでもあります。一人ですべてをこなさなければならず、日々考え、試行錯誤の連続だったとおもいます。ここで、これと決めたらやりきる、とことん追求するという職人的な性格が私の根底の部分にあることに気づきました。

こだわりの嵯峨とうふ

他がしていないことをやる。こだわり続ける、嵯峨豆腐の豆腐作りへ。

やるからにはこだわりたいという想いから、材料にこだわり、大豆は国産大豆のみ、にがりは沖縄から取り寄せるようにしました。それだけでは飽き足らず、大豆から自分で育てることにしました。他がしていないことをやる。それが私の一番のこだわりであり、熱意だと思います。夏は暑く、冬は寒い。話相手がいない。とても楽な仕事とは言えません。祖母はそんな仕事を50年も続けてきました。まだまだ足元にも及びませんが私なりに頑張っていきたいと思います。